清正の堤防
下江津橋の下流300mの辺りで、加勢川は東から流れてきた川と合流する。その上流1 kmほどの所では、秋津川と木山川、矢形川が1つになっており、3つの川はそれぞれの流域で雨水などを取り込む。水前寺成趣園や江津湖の湖畔や湖底で地下水が湧出し、有明海の潮汐作用により海水がさかのぼってくることもある。水量が豊かな加勢川は、周囲の田畑に水を供給する一方で、水による災いももたらしてきた。

下江津橋を渡ると県道103号との交差点。横断歩道を渡りさらに直進し、短い階段を下りたら右へ向かう。無田川沿いをたどって行くと、やがて左手に広がる水田地帯が見えてくる。
江津湖周辺は、もとは湧き出した地下水が流れ出ていた沼地だった。加藤清正が堤防を築き水をせき止めたことで、江津湖が形成された。この堤防が、「江津塘」または「清正堤」と呼ばれるものである。
塘は加勢川右岸を下流へ続き、現在の川尻の町まで十数kmに及ぶ。加勢川右岸には、無田地区から西へ、広大な耕作地や集落が生み出された。ただし、この地に住むようになった人びとの水害による苦難は続き、ようやく改善されるようになったのは第2次世界大戦後のこと。

下江津橋から無田川沿いの道に出て、上流方向へほぼ一直線に道が続く。川沿いの道には、右手に住宅街、左手の川越しに水田の風景が広がる。左斜め前方に金峰山地を望み、水田は川尻まで遠く続く。途中、県道103号を渡り、さらに道を真っすぐ進む。左側は変わらず川越しに水田が続き、やがて道の両側が住宅地となってくる。
江津湖西側に広がる、現在の出水・画図・田迎・御幸地区は、江戸時代には「江津牟田新地」と呼ばれていた。詳細は不明とされるが、清正の新田開発により開かれた所で、慶長13年(1608年)の新田検地帳が残されていることなどから、工事の開始は慶長5年ごろと考えられている。
江津塘

一直線の道がT字路に突き当たったら、右へ。「下江津菅原神社」の前から境内沿いに道をたどり社殿の横で左折すると、正面に高さ3、4mほどのコンクリートの壁が見える。その上には道路が通り、その先が下江津湖。壁の高さに堤防、つまり江津塘の存在が実感できる。

塘の上の道路に上がったら、左側の歩道へ。画図橋を右にして通り過ぎると、やがて江津斉藤橋が架かる国道57号の交差点。その手前で国道の下をくぐり、上江津湖の水辺に降りる。

上江津湖の右岸の水際に延びる道は左岸と異なり、道幅が狭くひと気も少ない。落ち着いた雰囲気が漂い、湖をより身近に感じられる。
ボート乗り場がある駐車場まで来たら、塘の上の道路に出る。クルマに注意して100mほど歩き、右へ。水際の道は木々の中を縫うように延び、水草などが間近に茂っている。木道が敷かれ、以前の水際の道とはまた違った湖の雰囲気が楽しめる。

対岸に「ゾウの滑り台」が見える辺りまで来たら、塘の上の道に上がる。Y字路の交差点に出たら右へ。「出水ふれあい通り」と名付けられた県道103号を直進して行くと、左側の歩道沿いに「熊野宮」の小さな社がある。

境内に大きな石が置かれているのは、肥後国分寺の七重塔に使われていたという礎石。国分寺は奈良時代に全国に置かれたもので、肥後ではこの熊野宮の近くにあったという。
「古代の水前寺」は国分寺に隣接していたといわれ、江津塘が築かれるまでこの一帯に広がっていた沼地は、現在の水前寺成趣園や熊野宮の辺りにまでは及んではいなかったらしい。
道をそのまま600mほど進めば、路面電車の「水前寺公園」停留所がある出発地の交差点に戻る。


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