公園の四つ角を左折して東へ向かう道は、ハーンが人力車で五高に通ったという「八雲通り」。仁王通りとの十字路を直進し、熊本電気鉄道の踏切を渡った辺りが、漱石が2番目に過ごした合羽町の家があった所。

熊本電鉄の踏切
密集した建物の間を走り抜ける熊本電鉄の踏切。

 なお、熊本電鉄の前身である菊池軌道株式会社が営業を開始したのは明治44年だったため、ハーンと漱石が熊本にいた頃、電車の行き来はまだなかった。

 八雲通りは国道3号の「藤崎宮北」交差点を直進して子飼商店街を通るが、コースはここで左折する。次の「浄行寺」交差点を右に入った道路の左側が、漱石が旅装を解いた菅宅があった薬園町。この地名は、「蕃滋園」という細川藩の薬草園が置かれていたことにちなむ。


五高記念館

赤門
熊本大学の敷地内にある「五高記念館」へは赤門から。

 ハーンと漱石が勤務した五高は、明治20年11月に第五高等中学校として始まり、明治27年に第五高等学校と改称され、戦後の昭和24年、熊本大学となった。蕃滋園は明治23年に廃止となるが、その薬草や薬木は五高に寄付され、熊本大学薬学部に受け継がれている。

ハーンレリーフ
ラフカディオ・ハーンの全身像が描かれたレリーフ。

 県道337号沿いにある赤門の熊本大学正門からキャンパス内に入ると、ハーンのレリーフと英文の石碑が立つ。そこに刻まれているのは、明治27年1月に行われたハーンの『極東の将来』と題する講演での最後の言葉。傍らにその翻訳文がある。

 「日本の将来は無益な贅沢、華美を捨て、質実、簡素、善良を愛する九州魂、熊本魂の維持如何にかかっている」

五高記念館
「五高記念館」。平成28年熊本地震による被災のため休館中。

 ハーンのレリーフの先には、国の重要文化財に指定されている、赤レンガ造りの「五高記念館」が重厚感を漂わせて立つ。ここにはハーンや漱石以外にも、著名な人びとの名が残る。
 第3代校長に柔道の大家として知られる嘉納治五郎が就き、後に内閣総理大臣となる池田勇人と佐藤栄作、第2次世界大戦終戦時の外務大臣・重光葵らが学んだ。館内では、教授や卒業生たちを紹介する資料など、五高の歴史に関するさまざまな展示が行われている。

漱石像
漱石像。傍らの碑に創立記念日での祝辞の一節を刻む。

 ユニークなのが漱石の「モンタージュボイス」。明治30年の開校10周年記念式で教員総代として読んだ祝辞を、再現した漱石の声で聞くことができる。ハーンのコーナーでは、彼の文字でつづられた英語とラテン語の試験問題や、アメリカで記者をしていた頃の記事などを展示。
 必見は「復元教室」。実際に使用されていたという机が並べられ、その表面には傷になった落書きが残されたまま。当時の雰囲気が感じられそうな空間だ。


『石仏』の地蔵

 大学敷地の東側に沿って延びる緩い上り坂を細川家菩提寺の泰勝寺跡方面へ向かうと、道沿いに宮本武蔵ゆかりの引導石がある。その先を左斜めに入った所が、ハーンが授業の合間などに散歩をしていたという、キャンパス裏手の小峰墓地。その風景をハーンは小説『石仏』で描いた。

 「丘のてっぺんからの見晴らしは、なかなかいい。ひろびろとした万緑の肥後平野が一望のうちに眺められ、そのむこうに、青い、ゆったりとした山脈が、半円形をなして、遠い地平線の光のなかに映え、そのまたむこうには、阿蘇火山が永遠の噴煙を吐いている」

小峰墓地の坂道
小峰墓地の坂道で振り返ると九州山地が見える。

 今では住宅や木々などにさえぎられて見通しは利かないが、坂道の途中から九州山地の山並みなどを眺めることができる。

 突き当たった三差路の「石佛」を示す案内をたどって行けば、ハーンがいた頃とさほど変わっていないであろう、鼻が欠けた顔に、優し気な表情の石仏が今もたたずむ。

石仏
ハーンの小説『石仏』のモデルになった鼻の欠けた地蔵。
マップ・五高跡へ

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