漱石が最後に過ごした家

子飼商店街
主婦や学生らが行き交う子飼商店街。

 小峰墓地から道を下り県道337号に出て、もと来た道を戻る形で進み、スクランブル交差点を渡った所が子飼商店街の入り口。この商店街には、300mほどの通り沿いに飲食店や生活用品店など、庶民的な店舗が立ち並ぶ。

 第2次世界大戦後にできた商店街で、ハーンや漱石がいた頃にはなかったが、八雲通りが通っており、徒歩数分の所には漱石が熊本で最後に住んだ北千反畑の家がある。今も住む人がいるので内部は見学できないが、通りから見る建物に当時の面影が感じられそうだ。

漱石第6の旧居
漱石は五高在籍のまま、この家と熊本を後にした。

 漱石はここで3カ月間ほど過ごした後、英語研究のため2年間のイギリス留学をすることとなり、そのまま熊本に戻って来ることはなかった。


白川と漱石

藤崎八旛宮参道
国道3号から続く藤崎八旛宮の参道。漱石旧居からすぐ。

 「禰宜の子の烏帽子つけたり藤の花」
 明治31年、漱石がこの家の近所にある藤崎八旛宮を詠んだ俳句だ。現在、漱石は小説家として有名だが、デビュー作『吾輩は猫である』が発表されたのは明治38年のこと。熊本にいた頃の漱石は、俳人として知られており、随筆家であり物理学者の寺田寅彦は、漱石の俳句にひかれて師事したという。「漱石」という名は、友人の俳人・正岡子規の詩文集を批評した際に初めて使った俳号である。

藤崎八旛宮
藤崎八旛宮。100mほどの所に井川淵の家があった。

 先の句には「藤の花」という春の季語があるので、明治31年3月に転居した、4番目の家にいた頃の作品だろう。藤崎八旛宮と同じ井川淵町にあったその家は、明午橋の脇に、白川に面して立っていたという。妻の鏡子が雨で増水した白川に身を投げるという、自殺未遂を起こした時に住んでいた所でもある。入水した鏡子は川漁をしていた人に助けられたというが、漱石夫妻にとってはあまりいい思い出はなかったのだろう、住んだのも3カ月間ほどと短かった。

明午橋
明午橋に続く道路。藤崎八旛宮から近い。

 白川には白雉3年(652年)や天平16年(744年)など古くから洪水の記録が残り、平成に入っても被害は起こっている。特に昭和28年6月26日の被害は甚大だった。阿蘇山の火山灰が流下し、熊本市の中心部などは大洪水とともに大量の泥土に見舞われ、死者・行方不明者422人を出した。
 漱石が北千反畑の家を最後に熊本を離れた明治33年7月にも、白川の大洪水が起きている。漱石やハーンの目にも、その猛威は見せつけられていたのだろう。

 明午橋から白川沿いの歩道を600mほど歩くと、路面電車が通る大甲橋。漱石の3番目の家は、橋を渡った左手一帯の新屋敷1丁目にあった。現在、その建物は水前寺成趣園の裏手に移築され、外部から見学できるようになっている。

白川遊歩道
明午橋と大甲橋をつなぐ、白川の右岸に延びる歩道。
マップ・白川沿いの道へ

※当サイト記載の内容は、作成時点までの信頼できると思われる情報に基づいて作成していますが、正確性等について保証するものではありません。利用者が当サイトにより被ったとされるいかなる損害についても、当サイトおよび情報提供者は一切責任を負いません。ご自身の判断と責任においてご利用下さい。