六間堰
田畑に農業用水をもたらし流域の水害を防ぐ六間堰。

 緑川との合流点にある六間堰から加勢川右岸の土手の道を上流方向へ向かう。Y字型の小さな三差路に出たら、右へ。左にカーブする緩い上り坂の上に来たら、右側の無田川に架かる外城橋を渡る。道なりに走って行くと、500mほどで川尻の町。


港町の風情を残す町並み

川尻の町並み
川尻の町並み。所々に江戸時代の面影を残す。

 鎌倉時代の川尻は、緑川流域の物流において重要な港町だった。軍港としての機能も持たされており、細川時代には「御船手」と呼ばれる藩の水軍も置かれ、その家族らが住んでいたのが、加勢川と緑川に挟まれた中州だった。当時、橋は架けられておらず、人びとは「中之島(大慈寺)渡し」「杉島渡し」「御船手渡し」の3カ所の渡し場を使って町と行き来していた。このうちの「御船手渡し場跡」や、その上流部に船着き場の跡が残されている。

船着き場
干満時いずれにも対応可能な工夫がなされた船着き場。

 江戸時代、水運の町として繁栄した川尻は、年貢米の集積地であるとともに、大坂などへの積み出し港でもあった。

 この港では、20万俵、約1万トンの年貢米の他、菜種や大豆などの農産物、薪炭、塩魚などが積み降ろしされていた。年貢米は、20万俵のうち15万俵が大坂の中之島にあった藩の蔵屋敷に廻船問屋の千石船で運ばれ、帰りの便には現地で購入された、綿や鉄、昆布、日用品などが積み込まれた。

石組みの階段
加勢川沿いの遊歩道と、船着き場の石組みの階段。

 川尻の港に到着したこれらの商品は、河川物流の中継的役割を果たした廻漕船により、農村部に運ばれた。明治元年の記録によれば、年間で1170艘の商い船が、川尻の港を出入りしていたという。年貢米の残りの5万俵は、加勢川から内陸水路によって、熊本城の御蔵に送られていた。
 年貢米を納める締め切りだった現在の11月ごろは、港や町は大変な賑わいだったという。

御船手渡し場跡
御船手渡し場跡。対岸の中州との行き来に利用された。


現存する江戸期の「御蔵」

 この町で特筆すべきは、江戸時代の「御蔵」が残されていること。全国的にも御蔵が現存するのは珍しい。
 御蔵とは、年貢米を収納するための蔵。江戸時代、川尻の御蔵には、飽田・託麻・益城・宇土郡の4つの地域から年貢米が収められていた。この4郡は、現在の熊本市、上益城・下益城郡および宇土半島が、ほぼそのエリアにあたる。

御蔵
保存修理中の200坪の御蔵。60坪の蔵が隣接する。

 当時は、「東蔵」「中蔵」「外城蔵」それぞれ3棟、合計9つの蔵があった。そのうち外城蔵の広さ200坪と60坪の2つの御蔵が、新幹線の高架のそばに立つ。一説に外城蔵は、加藤清正が攻め落とした小西行長の宇土城の材木などを用いて建てられたという。なお、現在は保存のための修理が行われている。

 御蔵の前の通りを、加勢川の上流側へ向かい通りに出たら左折。約2 kmで国道3号に出てさらに北へ向かえば、1 kmほどで国道3号と国道57号が出合う「近見」交差点に戻る。

近見交差点
JR西熊本駅東約600mの「近見」交差点で旅は終わる。
マップ・川尻

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