内空閑氏と神功皇后

国道208号を植木の中心部へ向かう途中、右に大きくカーブした後の三差路を左折して山越えのコースに入る。森の中を抜けてそのまま進むと県道3号との交差点。左に折れると「内空閑城址公園」の看板が見えてくる。
山道を1 kmほど登った山頂が城跡。小さな祠の背後に尾根が続き、三方は木々の間から町を見下ろす。北側には内空閑氏8代鎮資(しげすけ)を祭る内空閑神社が、城跡がある山稜を見上げるようにたたずむ。

一説に南北朝時代末期、伊賀国(三重県)の服部基貞が下向し、名を内空閑に改め内空閑城を築き、肥後の豪族・菊池氏の家臣としてこの地域を支配した。
しかし、天正9年(1581年)に薩摩の島津氏に攻められ内空閑城は落城し、国衆一揆平定直後の天正16年、安国寺恵瓊により鎮房と鎮照が死に至らしめられ内空閑氏は滅亡した。

県道3号を和水町方面へ進んだ右手に清水菅原神社がある。江戸時代の石橋が架かる池の傍ら、神功皇后にまつわる伝説が残る「御手洗さん」と呼ばれる小さな池に清水が湧く。この水は千田川の流れとなり、7 kmほど下流で菊池川に流れ込む。皇后は、千田川下流の聖母八幡宮の近くに船を着けて川上に向かって歩き、水の元はどこかと矢を放つと、その矢が刺さったというのがここ。皇后がこの湧水で手を洗い身を清めたことからこの名が付けられたとされる。
なお池の石橋は、千田川下流に架けられていた乙貝橋が移築されたもの。

豊前街道
「駄の原」バス停の先で右斜め前方の道に入り、高速道路の高架をくぐりしばらく進むと山鹿市との境。さらに七之宮の鳥居前を過ぎて鉄塔脇の道に入った先を右へ向かうと、やがて「豊前街道」の文字が見える。
標柱には「乙貝坂」ともあり、そこから道は下り坂が続く。

豊前街道は、熊本城下の札の辻と小倉(北九州市)を結ぶ、江戸時代の主要道。かつて小倉に本拠を置いていた熊本藩主の細川氏は、参勤交代などで40回以上この道を利用したという。
3mの高さ制限がある高架を過ぎ、視界が開けてくるとやがて千田川の乙貝橋。山鹿市との境界となる道をたどり県道119号を横切ると、再び「豊前街道」の文字。その脇から延びる土の道は、往時の様子をとどめているという区間である。


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