吉次峠と半高山

半高山山頂
半高山山頂。すぐそばまでクルマでのアクセスも可能。

 官軍の応援部隊は福岡県久留米から、南関・山鹿を通る本街道と、三池を経て高瀬(玉名)を通る裏街道の2つのルートで熊本城を目指した。その際、山鹿方面では敵の進軍を防ぐにとどめ、高瀬方面では敵を駆逐することに努めた。高瀬方面では隊をさらに2つに分け、木葉・田原坂方面と、熊本城への脇道である吉次峠を通る道へ差し向け、後に合流することにした。

 標高238mの吉次峠の南側は三ノ岳山頂へと続き、北側には半高山がある。この峠は守るに易く攻めるに難しい地形であるだけでなく、官軍の進軍をくい止めようとする薩摩軍は精鋭を集めていた。官軍が後に「地獄峠」と呼んだほど、熾烈さを極めた戦闘が行われた。

有明海と雲仙
玉東町や玉名市、有明海の先に見る島原半島の雲仙岳。

 「吉次峠戦場地跡」の向かいに見える半高山も激しい戦闘が行われた所だが、山頂からの風景は見ごたえがある。東に阿蘇山や九州山地を望み、北に筑肥山地の山並みが続き、眼下に熊本平野が広がる。西へ目を向ければ、有明海越しに長崎の雲仙岳が見える。

 県道113号に入り半高山を右手にして進み、やがて木々の間を縫うように続く下りのカーブが終わった先に菱形八幡宮がある。高さ50mを超す夫婦杉が並び立ち、その200mほど先には清水が湧き出す「菱形の池」。さらにその手前の細い道を上った所にあるのが、岩の壁面に釈迦如来座像や阿弥陀三尊立像が彫られた「円台寺磨崖仏群」だ。

菱形八幡宮
夫婦杉が立つ菱形八幡宮。近くには円台寺磨崖仏群がある。


田原坂

 JR鹿児島本線の踏切を渡り左へ折れ、高架の線路沿いを500mほど行くと再び県道31号。線路と木葉川の小さな流れとともに続くこの道は、5、600mほどの幅の谷間に延びる。
 官軍は左手の高台にある二俣地区に砲台を置いた。その谷の向かいにある現在の田原坂公園から左手に下り坂が続き、国道208号に出る。この坂道が西南戦争最大の激戦地となった、わずか1.5 kmほどの田原坂だ。

二俣と田原坂の間
左側の二俣、右側の田原坂がある高台の間に道が続く。

 田原坂の戦闘では、「抜刀隊」が活躍した。薩摩軍の兵は、地面に身を伏せ、木や石の陰に隠れて敵に接近し、突然斬りかかっていく。官軍は狙撃隊を差し向けるが効果はない。当時の田原坂は、外が高く内が低く、凹字型で急な坂があり曲折しており、左右は断崖で、樹木が多く昼でも暗かったという。徳富蘇峰によると、このような地形で防塁が築かれた状況では、白兵戦にならざるをえなかった。官軍は抜刀隊を組織し、「同生同死」を誓った100人を田原坂へ向かわせた。

 官軍の山縣有朋は政府への報告書で、田原坂の攻防戦を決した3月20日の戦いは官軍の不意打ちによる勝利だったという。その朝、前夜からの雨が降りやまず、薩摩軍が備えをしていないところへ官軍が進撃した。防塁をことごとく落とされた薩摩軍は敗走、植木の営所も総崩れとなった。官軍はそれを追撃し、営所に火を放ち、植木の町を焼き払った。
 ただしこの後、官軍の進軍は容易にはいかず、両軍は互いに戦線を張り向坂で対峙する。官軍は右翼を吉次峠から有明海へ、左翼を山鹿方面へ延ばし、薩摩軍は左翼を三ノ岳から有明海へ、右翼を泗水から菊池へと延ばした。結果的に官軍の応援部隊が、田原坂から20 kmほどの所にある熊本城に入城したのは、田原坂陥落から1カ月近く経った4月16日のことだった。

豊岡橋
江戸時代に築造された豊岡橋。写真右上が田原坂。

 県道31号が国道208号に出る直前の左手に、享和2年(1802年)に築かれたという石橋の豊岡橋が架かる。官軍は田原坂に向けてこの石橋から出撃した。「田原坂公園入口」交差点から玉名方面へ300mほどの「境木」バス停脇には、「田原坂攻撃官軍第一線陣」の文字が認められる古びた石碑が立つ。

マップ・田原坂へ

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