細川忠利ゆかりの地

 熊本で「細川氏」といえば、幽斎藤孝や三斎忠興の名が浮かぶでしょう。しかしふたりは近世細川氏の礎を築いたとはいえますが、熊本藩54万石を与えられた時、三斎は11年前に家督を子に譲っており、幽斎は22年前に亡くなっています。熊本細川藩の初代藩主は、幽斎の孫で忠興の子の忠利です。
 15歳の時に人質として徳川家に差し出された忠利は、後の2代将軍秀忠に気に入られ、「忠」の一字を与えられました。また春日局や、幕府の剣術師範の柳生宗矩、幕閣の要人らとも人脈を築いています。
 熊本藩主となった忠利は、死後もなお領民に慕われていた加藤清正を尊重するとともに、他藩の模範となるような治世を心掛けたそうです。
 このころは3代将軍家光の治世で、天下太平の基礎固めが行われていました。「お家存続」という政治力がものをいう時代であり、忠利の活躍は目立ちはしませんでしたが、237年間もの藩存続となり花が開いたといえるでしょう。
 忠利は寛永18年(1641年)56歳の時に突然亡くなり、JR熊本駅近くの岫雲院(しゅううんいん)春日寺で火葬されました。その裏手に「細川忠利公火葬の地」の碑が建てられており、墓所は北側の妙解寺跡に置かれています。
 「阿部一族屋敷跡」は、森鴎外により小説化された、忠利の死に伴う殉死にまつわる事件の舞台となった所です。その400mほど北の花畑公園には、忠利が藩主の屋敷として利用していた花畑屋敷がありました。

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