第11回 熊本加藤氏2代忠広

忠広
常夜燈 忠広は常夜燈の明かりを頼りに熊本城から拝礼していました。

 11人の細川藩主が加藤清正の陰で存在感が小さいと先に書きましたが、それよりもさらに目立たないのが、清正の跡を継いだ熊本加藤氏2代の忠広でしょう。
 忠広は慶長6年(1601年)に生まれ、同17年に父・清正の死により熊本藩54万石の藩主となりました。その在任期間は清正の23年間とほぼ同じ、21年間でした。
 しかし寛永9年(1632年)6月、徳川3代将軍家光により、庄内(山形県鶴岡市)1万石へと転封させられてしまいます。長男光正は飛騨(岐阜県)へ、3男光良は沼田(群馬県)へ流されました。このことで熊本加藤氏は断絶となりました。一説に、光正がクーデターに加担していたとの疑いによるものですが、真偽は不明とされています。忠広は庄内で21年間を過ごし、承応2年(1653年)に53歳で亡くなりました。
 忠広は清正が亡くなると、遺言により廟所を建てました。それが清正を祭る本妙寺の浄池廟です。熊本城を望む中尾山の中腹に建てられ、その位置の高さは天守閣とほぼ同じといわれています。廟舎へ続く「胸突雁木」と呼ばれる長い石段の途中の脇には、忠広一族の分霊を祭る「六喜廟」があります。転封を言い渡された際、忠広は家臣から討幕を進言されましたが、それを退けたというエピソードも残されています。
 忠広や11人の細川藩主が、熊本の人たちによってもっと取り上げられるようになったら、熊本市のイメージに厚みが少し加わるような気がします。

参照:第6回 熊本市内の坂

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