「サザエさん」のふるさと

サザエさん通り
北側には「シーサイドももち海浜公園」などがあります。

 福岡市の総合図書館と博物館の間の道に、「サザエさん通り」とありました。
 この辺りは文永・弘安の役(元寇)で元軍が上陸したという所です。防塁跡に向かう途中の「西新通り」交差点で、「サザエさん発案の地」の記念碑を見掛けました。一応、説明文をカメラに収めておき、西南学院大学沿いの道を歩いていると、波平さんの像が建てられていました。元寇神社や防塁を見て「麁原(そはら)」という元軍の陣地跡の公園に向かっていると、西新商店街でまたもや「サザエさん」を目にしました。
 説明文によると昭和19年ごろ、原作者の長谷川町子さんはこの地に住んでいて、海岸だった「よかトピア通り」の辺りを、妹さんと毎日散歩していたことから、漫画『サザエさん』の登場人物の名前が海産物になったそうです。
 「蒙古襲来」という空恐ろしい出来事の史跡巡りの中で偶然見つけた、ほのぼの系国民的マンガのキャラクターの「ふるさと」でした。
(平成30年3月訪問)

待たされない方法

太宰府天満宮参道
朝6時半ごろの太宰府天満宮へ向かう参道の様子です。

 太宰府天満宮の取材は、ゴールデンウイークの真っ只中でした。
 境内が開かれる朝の6時30分過ぎに西鉄太宰府駅前に到着すると、参道にも境内にも人影はまばらでした。本殿や「飛梅」、ウシの像などの写真を押さえ、「九州国立博物館」と「宝物殿」と「菅公歴史館」が開館するまでの間、観世音寺と政庁跡を訪れました。再び天満宮に戻って来たのは午後3時ごろでした。
 参道から本殿に向かう途中、鳥居の先にウシの像があります。「ウシ」に触れると御利益があるらしく、像の前にはたくさんの人が列をつくっていました。本殿近くにある像の前も行列でした。
 待つのが苦手なわたしは、早起きをして撮影を終わらせていたことに「ほっ」とする一方、名物の「梅ヶ枝餅」をいただきたいと思うものの、参道沿いのお店はどこもお客さんでいっぱいでした。参道から外れて歩いていると、古いお店を見つけて、待たされずに1つ買うことができました。
(平成30年5月訪問)

特攻機のパイロット

特攻機
マーシャル諸島のタロア島に墜落していた零戦三二型です。

 太宰府取材の帰り、筑前町の大刀洗平和記念館に立ち寄りました。戦時中、日本陸軍の飛行場があった所で、特攻隊のパイロットの養成学校も置かれていました。特攻隊の代名詞になっている鹿児島県の知覧には、ここの分校がありました。
 展示されている実物の「ゼロ戦」を目の当たりにしたことは感動ものでしたが、さらに強烈な印象を受けたのが、ある1枚の写真でした。
 画面いっぱいに無数の閃光が飛び交い、写真中央の上方に小さな黒い影が見えています。昭和20年5月12日、沖縄に停泊中の米戦艦ニュー・メキシコに、無数の銃弾の中、翼を翻して突入態勢に移ろうとしている日本軍の特攻機を戦艦上から撮影したものです。記録では、この攻撃に5機が参加し、1機が命中、1機が至近自爆をしたことにより、死傷者150人の被害を与えたといいます。
 終戦まで3カ月ほどのころです。戦況は見えていたでしょう。操縦桿を握っていた日本兵が何を思っていたのか、考えてしまいます。
(平成30年5月訪問)

「信心」のパワー

英彦山参道
奉弊殿が近くなると参道の勾配はかなり急になります。

 英彦山神宮の参道を奉弊殿に向かっていた時、ご夫婦と見える高齢の方を見かけました。男性は女性の手を取り、女性は足を悪くされているようで、手すりにつかまり石段を一歩ずつ確かめるように登っていました。江戸時代に築かれた石段は、歩きやすいものではありません。最初は緩やかな参道の勾配は徐々にきつくなっていきます。体力のない人にはかなり厳しい道でしょう。
 銅鳥居の近くから奉弊殿までスロープカーが通り、決して歩く必要はありません。そこを足の悪い高齢者の方が、わざわざ歩いて向かわれていたのです。
 二人を追い抜く際に「こんにちは」と声を掛けると、男性はこちらの目を見て、女性は足元に目を向けたまま、「こんにちは」と返してくれました。
 二人に何らかの強い思いがあるように感じた一方で、足の悪いおばあちゃんにそこまでのことをさせるのが「信心」の力なのかと思うと、空恐ろしさを感じさせられたような気もしました。
(令和4年5月訪問)

クニごと大和に移ったのなら

日本発祥の地
「日本発祥の地 卑弥呼の里 あまぎ」と記されています。

 資料の整理をしていたところ、「甘木」という表記を「日本」と見間違えたことがありました。漢字の形が似ているだけのことですが、少々気になります。というのも朝倉市の甘木鉄道甘木駅の前に、「日本発祥の地」と刻まれた石碑が立てられているからなのです。
 本編で紹介したように、市内の「平塚川添遺跡」を含むエリアは邪馬台国の候補地とされています。また恵蘇八幡宮には、この地で崩御された斉明天皇の仮の埋葬地とされる御陵山があります。
 一説に661年、斉明天皇は百済救済のため、「朝倉橘広庭宮」に一時的な遷都をしました。その場所を、かつてクニごと大和に移る前に先祖が住んでいたから朝倉の地を選んだと考えるのなら、不思議でもないように思えます。
 「国のはじまりが大和の国」と寅さんの口上にありますが、大和の国の前身が朝倉ならば、「日本発祥の地」が朝倉・甘木のようにも思えてきました。
(平成29年5月訪問)

白蓮と龍介の石炭と文学

白蓮居室
燁子が約10年間過ごした伝右衛門邸「二階座敷」の南側の窓です。

 公卿出の父と大名出の母を持つ柳原燁子(あきこ、白蓮)は25歳の明治44年、石炭で成功した50歳の伊藤伝右衛門と結婚しました。燁子には望まぬ結婚でしたが、伝右衛門が出資して創設された女学校経営に参加したいとの希望がありました。しかしそれはかなわず、家の中では女中と折りが合わず、伝右衛門との関係も冷め、孤立を深めていく燁子の気持ちが向かった先が短歌でした。
 大正9年、別府(大分県)の別邸で行われた、燁子と東京の雑誌社との打ち合わせに編集者として訪れて来たのが、東京帝国大学の学生だった宮崎龍介です。
 龍介が生まれた荒尾(熊本県)は、隣の大牟田と共に石炭で栄えた町です。伝右衛門と同様、石炭の町の人です。しかし龍介は石炭の世界に向かわず、東京帝大に進みました。そして燁子と出会い、駆け落ちして、一生を添い遂げました。
 燁子と龍介のために「石炭」がお膳立てをし、「文学」が2人を引き合わせたようにも思えます。
(令和4年10月訪問)

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