アクセス:生の松原元寇防塁(福岡市西区)

移動手段:クルマ
モデルコース:生の松原元寇防塁 → 今津元寇防塁

生の松原元寇防塁
生の松原の防塁。『蒙古襲来絵詞』で知られる竹崎季長らの肥後が担当した。

 アジアからヨーロッパに及ぶ大帝国を築いたチンギス・ハン。その孫のフビライ・ハンは、支配した朝鮮半島の高麗を拠点として日本を取り込もうとした。文永3年(1266年)から通交を求め6度の使者を立てるが鎌倉幕府はこれを拒絶。
 文永11年(1274年)10月3日、約2万6,000の兵から成る元・高麗軍が釜山の西の合浦から日本に向かった。対馬・壱岐(長崎県)を襲撃し、同20日に博多湾沿岸に上陸すると、麁原・鳥飼・別府・赤坂などで戦闘を行った。この戦いで元・高麗軍は優勢だったが、翌朝には船団は博多湾から姿を消していた。
 その後、幕府は元からの7回目の使者を処刑する一方で、石築地(元寇防塁)の築造を開始。九州の御家人たちに分担させ、それぞれ1.7から3キロメートルほどの防塁の築造と警護に当たらせた。建治2年(1276年)3月からわずか半年間ほどで、現在の福岡市西区今津から東区香椎までの岩場や崖を除く、軍船から上陸しやすい沿岸部の砂丘などに、総延長約20キロメートルの防塁を築き上げた。
 幕府がさらに元からの8回目の使者を博多で処刑した2年後の弘安4年(1281年)5月3日、フビライは兵約4万の東路軍を日本へ送った。
 東路軍は対馬・壱岐に侵攻した後、6月6日に博多湾に襲来。しかし防塁がその上陸を阻み、志賀島などの防塁が築かれなかったエリアが戦場となった。
 福岡市内には複数か所の元寇防塁跡が国の史跡に指定されている。現在、多くは埋め立てにより内陸部にあるが、西区の海岸線はほぼ当時のまま。生の松原や今津では、海岸に復元された防塁を間近に見ることができる。

今津元寇防塁
3キロメートルほどの長さがあったという今津元寇防塁の約200メートルを復元。
長浜海岸
今津元寇防塁近くの長浜海岸。約200キロメートル海の向こうに朝鮮半島がある。

参考資料:パンフレット「蒙古襲来」福岡市博物館、他

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