アクセス:英彦山神宮銅鳥居前(添田町英彦山)
移動手段:徒歩
モデルコース:英彦山神宮銅鳥居 → 財蔵坊 → 奉弊殿

彦山における開山や修験道の始まりについては不明だが、鎌倉時代初期には霊仙寺を中心に強力な武力を備えた修験集団が成立している。
そのことは一方で有力者らに警戒される要因ともなり、龍造寺氏や大友氏に焼き討ちされ、九州平定後の豊臣秀吉には領地を没収された。
その後、信者からの布施を主な経済的基盤として再興し、享保14年(1729年)には霊元法皇の院宣により「英」の一字が与えられ「英彦山」と改められた。しかし明治の修験宗廃止令などにより霊仙寺は英彦山神社となり、英彦山の修験道は終わった。
国道500号の町バス「銅の鳥居」停留所近くに銅鳥居が立つ。貞享3年(1686年)に築かれた約1キロメートルの石段の参道は、緑の中を奉幣殿まで直線状に続く。参道沿いには坊の跡などが残り、財蔵坊は往時の建物が資料館として公開され、修験者の暮らしぶりを垣間見ることができる。高さ約8メートルの宝篋印塔を左手に過ぎればやがて奉幣殿。元和2年(1616年)に細川忠興により再建されたもので、そのすぐ上に英彦山神宮の下宮がある。
霊仙寺境内は3つの鳥居を結界として4つのエリアに区別されていた。銅鳥居から石鳥居までの修験者たちが居住する坊が集まるエリアは、参詣者が宿泊して「汚れ」を浄化する場。奉弊殿の前に立つ石鳥居が、修験場への入り口である。
石鳥居からの道は険しい区間もあるため、山頂や玉屋神社、大南神社などへ向かう場合は、しっかりと山登りの準備をしておいた方がいい。


参考資料:長野覺「山岳霊場における聖・俗界の諸相」『歴史地理学紀要』第30巻、他
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