アクセス:天草四郎公園(上天草市大矢野町)
移動手段:クルマ
モデルコース:天草四郎公園 → 殉教公園 → 吉利支丹供養碑 → 富岡城

大矢野島の国道266号沿いの高台に像が立つ天草四郎、本名を益田四郎時貞という。キリシタンの救世主とされ、天草・島原の乱で一揆勢の頭領を務めた。長崎に生まれ、乱が起きたころはJR宇土駅から1キロメートルほど南の江部村(宇土市旭町)に住んでいたという。
「四郎は通常の服の上に白い綾の布をまとい、下には裁付袴(たっつけばかま)をはいて、頭には苧(からむし)を三つ組にして首のところで結び、額に十字架を立て、手には御幣(ごへい)を持っていた」「色白でかね(おはぐろ)を入れ、髪を茶筌(ちゃせん)に結び、前髪をたらしていた」。実際に四郎を見たという人の言葉である。
寛永14年(1637年)11月13日、島原に渡っていた四郎は一揆勢を率いて天草の上津浦(こうつうら)に上陸した。天草勢と合流すると、翌日の島子および本渡の戦いで幕府方の寺沢氏を破った。
天草市役所の近くを流れる町山口川は戦死者の血に染まったといわれ、殉教公園には「天草キリシタン館」やキリシタン墓地などがある。
一揆勢は、同18日から22日にかけて富岡城への城攻めを開始するが攻略できず、四郎らは島原へと向かった。
苓北町に延びる砂洲の先の山上には、寺沢氏が築いた富岡城がある。天草のキリスト教は、この地を寺沢氏以前に治めていた志岐鎮経(しきしげつね・麟泉・りんせん)が、永禄9年(1566年)に受洗したことに始まった。


参考資料:『本渡市史』、『苓北町史』、他
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