アクセス:熊本市電「祇園橋」停留所(熊本市中央区)

移動手段:電車・バス
モデルコース:妙解寺跡 → 水前寺成趣園 → 武蔵塚公園 → 泰勝寺跡

武蔵塚公園
武蔵塚公園の宮本武蔵像。正面の県道337号が旧豊後街道。

 JR熊本駅にほど近い北岡自然公園内の妙解寺跡には、光尚・綱利・宣紀・宗孝・重賢・治年・斉護ら7人の熊本細川藩々主とともに、初代藩主の忠利が眠っている。忠利は藤孝の孫で忠興の子。
 徳川幕府3代将軍・家光の時代、加藤清正の子・忠広が庄内(山形県)へ改易された後、旧加藤領54万石は豊前藩々主の細川氏に与えられた。当時、すでに藤孝は亡くなっており、忠興は家督を譲り隠居していたため、忠利が熊本細川藩の初代藩主となった。
 熊本には忠利にゆかりの深いものが残る。水前寺は、羅漢寺(大分県中津市)から来た玄宅和尚のために忠利が建てたもの。その後、移転した跡地に大規模な庭園が築かれ水前寺成趣園となった。からし蓮根は、玄宅和尚が忠利の健康ためにレンコンをすすめ生み出された。
 剣豪・宮本武蔵を熊本に招いたのも忠利。武蔵像が立つ武蔵塚公園は、参勤交代で往来する藩主を見守りたいとの遺言により武蔵が葬られた所。
 忠利は寛永9年(1632年)に豊前小倉城を離れ熊本に入国した。熊本城の大手門で駕籠を降りた忠利は、敷居前で頭を垂れて入城すると、天守閣から清正の墓所がある本妙寺に向かって遥拝した。熊本の基盤を築いた清正に敬意を示すことで、領民感情に配慮したものという。
 忠利は泰勝院を建て藤孝夫妻と母・ガラシャの廟を築いた。忠利が亡くなると子の光尚が忠興の廟を加え、翌年泰勝寺と改称した。

妙解寺
石段を上り詰めた所に忠利夫妻と光尚の霊廟がある妙解寺跡。
水前寺成趣園
阿蘇山の伏流水が湧き出す回遊式庭園の水前寺成趣園。

熊本細川藩々主名

初代忠利(ただとし)
第2代光尚(みつなお)
第3代綱利(つなとし)
第4代宣紀(のぶのり)
第5代宗孝(むねたか)
第6代重賢(しげかた)
第7代治年(はるとし)
第8代斉茲(なりしげ)
第9代斉樹(なりたつ)
第10代斉護(なりもり)
第11代慶順(よしゆき)※後の韶邦(よしくに)

参考資料:米原正義『細川幽斎・忠興のすべて』新人物往来社、他

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