「西郷どん」の祖先

西郷どん
建物の裏手に増永城址があります。

 菊池市七城町の若宮神社境内に西郷公民館があります。そのそばには徳富蘇峰による揮毫で、「西郷南洲先生祖先発祥之地」と刻まれた石碑が建てられています。ここは西郷隆盛の西郷家の発祥地とされている所なのです。
 菊池氏の居城の菊池城には、「菊池十八外城」と呼ばれる複数の支城がありました。そのうちの1つが若宮神社に城跡が残る増永城で、菊池氏初代・則隆の次男の政隆(西郷太郎)が城主でした。その子孫が薩摩へ移り、政隆から32代目が西郷隆盛といわれています。隆盛が奄美大島へ配流されていた時に「菊池源吾」と名乗っていたのも、祖先が菊池氏であることだからだそうです。
 石碑の傍らには、配流先だった奄美大島・龍郷町の「西郷塾」から贈られたヒカンザクラが植えられています。
 ついでに、西郷どんとは関係ありませんが、若宮神社からほど近い七城中学校は、マンガ「天才バカボン」のパパの「母校」なのです。
(平成30年4月訪問)

砂月海水浴場の様変わり

砂月海水浴場の泥水
メインカットを撮影した約4時間前の海水浴場の様子です。

 牛深取材では、海の風景が短時間で一変する出来事がありました。
 JR熊本駅近くのレンタカー店を出発後、途中、三角西港や四郎ヶ浜ビーチなどに立ち寄りながらクルマを走らせていたのですが、雲が多く時折強い雨が降ったりする天候でした。日が傾き始めたころに現地に到着して、下須島の砂浜の写真を押さえておこうと、島南端の砂月海水浴場に向かいました。しかし、満ち潮の時間だったらしく砂浜はほとんど見えない状況で、翌朝の7時ごろに訪れた時も濁った海水が浜に打ち寄せるだけでした。
 せめて広い砂浜が現れてくれないかと思いつつ、町に戻って他の用事を済ませていると、昼前になって晴れ間が出てきたので再々度、砂月海水浴場に向かいました。到着すると、自分の目を疑いたくなるほどの風景が広がっていました。
 それが本編「牛深」のメインカットに使った写真の風景です。数時間前の砂浜とはまったく異なるものでした。感動ものでした。
(平成26年7月訪問)

大観峰のウシ

牛
目が覚めて約2分後の状況です。

 牛深取材を日没後に終えると、そのままクルマで阿蘇へ向かいました。大観峰からカルデラ内の風景を撮影するためです。
 阿蘇市中心部には真夜中の2時ごろに着き、早めに現地に到着して仮眠をとろうと思いそのまま大観峰へ向かいました。カルデラ内から外輪山の壁面を上る道はカーブが連続しており、途中、霧が出てきて次第に濃くなっていきました。坂道を上り切っても濃厚な霧は晴れなかったので、道端のスペースにクルマを停めて、運転席のシートを倒してしばらく仮眠をとることにしました。
 それから3時間ほどたっていたでしょうか、「何か」の気配を感じて目が覚めました。まぶたを開ける直前、漠然とした危険を感じ反射的に身を起こしながら目を開けるとそこにあったのは、クルマの真正面からフロントガラス越しにのぞき込むようにこちらを見ている大きなウシの顔でした。
 ウシにたたき起こされたような思いを抱えながら、大観峰に向かいました。
(平成26年7月訪問)

水俣の海

恋路島
水俣湾の湾口には恋路島が浮かんでいます。

 大阪に住んでいたころ、偶然見学した水俣病の写真展で被害者の人たちの姿を目にしたことが、個人的に水俣病を意識するきっかけになったように思います。
 その数年後、添乗員の仕事に就いていた時に、奈良県の高校の修学旅行で熊本に行くことになり、湯の児温泉を初めて訪れました。リゾートムードが漂う浜辺に面した温泉地でいい所だと思いましたが、そこが水俣市だと明確に認識したのは、ずっと後のことでした。
 さらにその数年後、町をちゃんと見ておきたいと思い、熊本の実家に帰省した際に水俣を訪れました。そこで驚かされたのが、かつて工場排水が垂れ流された水俣湾の岸壁から見た海水が、青く澄んでいたことでした。
 加えて夕暮れ時だったため、海の向こうの天草諸島越しに沈む夕日の風景の美しさに、ほぼ「公害一色」だった水俣のイメージは、すっかり覆されてしまったような思いがしました。
(平成22年9月訪問)

陸路で目指した東京

腹切坂
急坂が続く腹切坂です。積雪時は今でも歩きづらいでしょう。

 西南戦争で、官軍は福岡県の久留米の辺りから主に二手に分かれて熊本城に向かいました。そこでわたしは、久留米方面から2つの行路が合流する熊本市北区植木町まで、有明海側を通る国道208号と、南関町を経て山鹿市を通る旧豊前街道の、2つのルートをたどってみることにしました。
 国道208号は、福岡県内ではほとんど平坦な道が続き、熊本に入っても田原坂までは、コースを選べば大きな坂道はありませんでした。
 旧豊前街道は、南関町から山鹿市中心部へ向かう途中、腹切坂では急な上り坂が続き、車坂では長い下り坂が続いていました。
 薩摩軍からすれば、これらの道を逆にたどることになっていました。2月から3月にかけての雪も積もる時期です。特に旧豊前街道のルートは、戦闘を繰り返しながらの相当過酷な行軍になったと思います。東京を目指していたのですから、わざわざ陸路を使わずに、船で向かった方がよかったのではないでしょうか。
(平成30年6月訪問)

殿様気分が味わえる城跡

佐敷城
城山山頂の城跡から見下ろす佐敷の町並みです。

 豊臣秀吉による九州平定は、天正15年(1587年)5月に薩摩の島津氏が降伏したことで成し遂げられました。その2カ月後に起こった佐々成政に対する「国衆一揆」は、確立したばかりの豊臣政権に対する反乱という一面もありました。
 さらにその5年後の天正20年(1592年)には、芦北町にあった佐敷城で、島津氏の家臣の梅北国兼らによる「梅北一揆」が起こりました。国兼は、加藤清正の支配下にあった佐敷城に使者を送り、秀吉の命により城を受け取りに来たとうそをつき、断られてしまうものの乱入して占拠します。しかし2日後に、酒宴の中で国兼は討ち取られ、一揆は鎮圧されました。
 水俣取材の帰途で立ち寄った佐敷城跡は小高い山の上にありました。山頂には石垣などが残るだけですが、360度に広がる眺望の中に佐敷の町や八代海(不知火海)、天草諸島などが見渡せます。
 幼いころに抱いていた「殿様気分」を味わえたようなひとときでした。
(平成22年9月訪問)

日奈久の船着き場

日奈久港の船着き場
すっかり潮が引いてしまっていた日奈久港の船着き場です。

 八代市の「妙見宮」を取材した際、少し足をのばして日奈久温泉を訪ねました。肥薩おれんじ鉄道の日奈久温泉駅で下車して歩いている途中、国道3号沿いの船着き場の前を通りかかった際、今にも道路に溢れてしまいそうなほどに海水が満ちている光景を目にしました。
 温泉街では、相撲の土俵がある温泉神社や、豊臣秀吉が島津征伐の際に通ったという道などを見て、公衆浴場で温泉に浸って過ごしました。この地は、「温泉はよい、ほんたうによい。ここは山もよし海もよし、出来ることなら滞在したいのだが……、いや一生動きたくないのだが」と、俳人・種田山頭火に言わしめた所です。わたしもこぢんまりとした居心地のよい温泉地だと思いました。
 帰途、駅に向かい再度船着き場の前を通りかかると、わずか5時間ほど前には溢れそうなほど満ちていた海水が、底が見えるまで引いていました。
 そういえば、温泉街の前の八代海も有明海のように干満差が大きな海でした。
(平成22年9月訪問)

五家荘への道

二本杉峠
坂道を上り詰めた二本杉峠から見る北側の風景です。

 美里町にある霊台橋の取材を終えて、五家荘へ向かう道のりは少々ハードでした。国道218号から人吉へ続く国道445号に入るとやがて道幅の狭い上り坂になり、カーブが延々と続くようになります。右手は森で、左手には高度が次第に上がっていくのが分かる見晴らしが広がっていきました。
 運転しながら思いました。山を切り拓き道を造り、人やクルマなどが行き来できるようにし、さらに道を舗装してガードレールやカーブミラーを設置するまでの困難さは、相当なものだったろう、と……。
 「この山中の狭い道でエンストしたら……」と心配しつつレンタカーを走らせ、二本杉峠を越えて広い道路に出た瞬間には「ほっ」とすると同時に、改めてこの国のインフラ整備が行き届いていることに、ありがたみを感じました。
 ちなみにこの後に訪れた「緒方家」で、バッテリーがあがってしまいエンジンがかからなくなるトラブルに見舞われてしまいました。
(平成22年9月訪問)

天草キリシタンの避難地

天草四郎ゆかりの里
宇土の町角に目立たずひっそりと建てられている標柱です。

 天草・島原の乱が起きたころ、天草四郎は現在の宇土市内に住んでいたそうです。現地を訪ねると中華料理店横の駐車場の片隅に、ひっそりと「天草四郎ゆかりの里」と刻まれた石柱と説明板が建てられていました。
 そこから200メートルほどの所には、文久元年(1861年)に架設された石橋の船場橋があり、傍らには武家屋敷跡があります。近くを通る県道297号を1キロメートルほど進んだ辺りは、キリシタン大名の小西行長が宇土城を築いた所です。
 天正16年(1588年)、肥後一国の領主だった佐々成政が失政で自害すると、行長と加藤清正がそれぞれ肥後半国の領主となりました。慶長5年(1600年)に肥後一国を清正が支配し、後に細川氏が藩主となり天草・島原の乱を迎えます。
 乱が起きたころの天草は唐津藩の寺沢堅高が支配しており熊本藩とは他国でしたが、宇土は天草から近かったこともあり、迫害から逃れて来たキリシタンが少なくなかったそうです。 
(平成30年3月訪問)

復興中の熊本城

復興中
加藤神社の境内から大小の天守閣や宇土櫓がよく見えます。

 「平成28年熊本地震」から丸1年がたとうとするころ、短期のアルバイトで熊本城に立ち入る機会がありました。大天守閣と小天守閣の間にある石垣は崩れ、地面には割れた瓦のかけらが積み上げられ、見上げれば大天守閣の屋根にしゃちほこはありませんでした。
 わたしにとって熊本城は幼いころから頻繁に目にしていた身近な存在であり、大地震までその姿はいつ見ても変わらないものでした。天守閣の被害の様子はテレビなどで見ていましたが、目の当たりにすると言葉を失うような思いでした。
 しかし被災して程なく、地元の人たちの間で熊本城の復興を望む声が少なからず出ていました。県や国の支援もあり、熊本市によると熊本城に関する寄付金は、平成30年6月30日現在で約11万2000件、約36億円に上るそうです。
 こういうたくさんの人たちの「気持ち」があることで、長い時間がかかっても、復興は成し遂げられると確信を持つことができています。 
(平成30年3月訪問)

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