アクセス:JR人吉駅(人吉市中青井町)
移動手段:徒歩
モデルコース:青井阿蘇神社 → 永国寺 → 人吉城跡 → 願成寺

青井阿蘇神社は人吉を代表する見どころの1つ。国宝の本殿や拝殿などから成る社殿は、相良氏20代当主の長毎により造られたもの。球磨川の先には9代前続開基の永国寺、その山門正面の道を直進して胸川を渡った所に人吉城跡がある。
人吉城は平頼盛の代官・矢瀬主馬助の居城だったが、建久9年(1198年)、源頼朝に人吉下向を命じられた相良長頼が攻め落とした。
人吉相良氏の初代はこの長頼とされるが、先の建久4年(1193年)に父の頼景が多良木に下向している。後にこれを上相良、長頼の流れを下相良と呼ぶが、やがて対立して文安5年(1448年)に上相良が滅んだ。
相良氏は人吉を拠点に、現在の人吉・球磨地域などを支配し、八代方面などへも進出した。
豊臣秀吉による島津征伐や、関ケ原の戦いの際に存続の危機にさらされたが、家臣の深水宗方(ふかみむねかた)や犬童頼兄(いんどうよりえ・相良清兵衛)らの働きにより領地の安堵を得た。その後、熊本・薩摩の大国に挟まれたわずか2万石ほどの小国でありながら、廃藩置県まで存続した人吉相良氏は、約700年間もの歴史を刻んだ。
人吉城にもともと天守閣はなく建物は残されていないが、迫力ある石垣が目を引く。対岸に乗り場が見える球磨川下りは、22代頼喬の時の大工事で舟運が可能となったことによる。くま川鉄道相良藩願成寺駅の近くには、初代長頼ら歴代相良家当主が眠る願成寺が立つ。


相良氏当主名
初代 | 長頼(ながより) |
第2代 | 頼親(よりちか) |
第3代 | 頼俊(よりとし) |
第4代 | 長氏(ながうじ) |
第5代 | 頼広(よりひろ) |
第6代 | 定頼(さだより) |
第7代 | 前頼(さきより) |
第8代 | 実長(さねなが) |
第9代 | 前続(さきつぐ) |
第10代 | 堯頼(たかより) |
第11代 | 長続(ながつぐ) |
第12代 | 為続(ためつぐ) |
第13代 | 長毎(ながつね) |
第14代 | 長祗(ながまさ) |
第15代 | 長定(ながさだ) |
第16代 | 義滋(よししげ) |
第17代 | 晴広(はるひろ) |
第18代 | 義陽(よしひ) |
第19代 | 忠房(ただふさ) |
第20代 | 長毎(ながつね) |
第21代 | 頼寛(よりひろ) |
第22代 | 頼喬(よりたか) |
第23代 | 頼福(よりとみ) |
第24代 | 長興(ながおき) |
第25代 | 長在(ながあり) |
第26代 | 頼峯(よりみね) |
第27代 | 頼央(よりひさ) |
第28代 | 晃長(あきなが) |
第29代 | 頼完(よりさだ) |
第30代 | 福将(とみもち) |
第31代 | 長寛(ながひろ) |
第32代 | 頼徳(よりのり) |
第33代 | 頼之(よりゆき) |
第34代 | 長福(ながとみ) |
第35代 | 頼基(よりもと) |
参考資料:『人吉市史』、尾方保之『概説相良藩』人吉中央出版社、他
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