アクセス:通潤橋(山都町長原)
移動手段:クルマ
モデルコース:通潤橋 → 霊台橋 → 石匠館

全国約1350基の石橋で江戸時代に築かれたのは426基、そのうち熊本の石工の岩永三五郎が54基、橋本勘五郎が50基を架けたという。
熊本に石橋文化が根付いたのは、加工しやすく丈夫な、石橋に適した阿蘇溶結凝灰岩が豊富なことに加えて、「種山石工」と呼ばれる石橋造りの名工がいたことが大きな要因だった。
天明年間(1781~1789年)、長崎のオランダ人に石橋造りを学んだ藤原林七が種山村(八代市東陽町)で技術を習得し、種山石工の祖となった。
熊本を代表する2つの石橋が、山都町の通潤橋と美里町の霊台橋。通潤橋は、水不足に悩まされていた白糸台地の人びとのために、惣庄屋の布田保之助(ふたやすのすけ)が尽力して造ったもの。さらに国道218号を西へ向かった緑川に架かる霊台橋も、篠原善兵衛(ささはらぜんべえ)という惣庄屋が手掛けた。いずれも種山石工によるもの。
国道218号から国道443号に入り、氷川の流れに沿うようにクルマを走らせると、やがて種山石工のふるさとの八代市東陽町。周辺に林七らが築造した石橋が残る「石匠館」では、石橋造りや種山石工などについて紹介。道を挟んだ向かいには橋本勘五郎の生誕地がある。
勘五郎は明治6年に政府に招かれ土木寮勤めとなり、浅草橋や万世橋の建造に携わった。熊本に戻ると熊本城下を流れる坪井川に、明治8年に明八(めいはち)橋、明治10年に明十(めいじゅう)橋を架けた。


参考資料:蓑田勝彦『熊本歴史叢書4』熊本日日新聞社、山口祐造『石橋は生きている』葦書房、他
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