アクセス:一の坂公園(熊本市北区)
移動手段:徒歩
モデルコース:一の坂公園 → 田原坂公園

明治10年の西南戦争は、熊本を中心に繰り広げられた。2月14日、薩摩軍の斥候隊約300人が東京へ向けて鹿児島をたつと、翌日より約1万3000人の兵から成る7つの大隊が続き、同20日、熊本城下に近い川尻に到着した。前日には、熊本城で不審火が発生し、城下町一帯は戦略上の理由から、官軍側の熊本鎮台により焼き払われていた。
同22日から、薩摩軍は官軍が籠城する熊本城への攻撃を開始する一方で、新たに送り込まれる官軍に対応するため本隊を北上させた。
薩摩軍は向坂(熊本市北区)で乃木希典隊の連隊旗を奪うものの、高瀬(玉名市)の戦いで劣勢となり、退却して田原坂に陣地を築いた。兵の数は吉次峠などと合わせて1万を超えたという。
当時、高瀬方面から熊本城へ砲隊が通行できる幅があった道は、田原坂のみ。麓の豊岡橋から現在の田原坂公園まで約1.5キロメートルの坂道などで、3月4日から同20日の間、激しい戦闘が行われた。空中でぶつかり合った銃弾や、無数の弾痕が残る建物がその壮絶さを物語る。
20日朝、「大雨ヲ冒シ、深霧ニ乗シテ突進」し、官軍は田原坂を突破した。靴と洋服の官兵と、わらじと着物の薩摩兵の、新旧の軍装の差が出たともいう。
田原坂公園には、この戦争で亡くなった官軍6923人、薩摩軍7186人、殉難者29人を慰霊する碑が立つ。背後にその人びとの名前が並び、薩摩軍の筆頭には「西郷隆盛」の名前がある。


参考資料:小川原正道『西南戦争』中公新書、猪飼隆明『西南戦争』吉川弘文社、他
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