アクセス:原城跡(南島原市南有馬町)
紹介スポット:原城跡

寛永14年(1637年)10月25日、島原半島南部(南島原市)で、キリシタンの集会を阻止しようと乗り込んだ松倉藩の代官が殺害された。これが島原・天草一揆の始まりとされる。
当時の島原半島では、藩主・松倉勝家により拷問や処刑を伴う、キリシタン弾圧や年貢の取り立てが行われていた。
一揆勢は北上して島原城を襲うと、同29日に島原湾を隔てた天草(熊本県)でも領民が呼応し、12月1日に原城籠城が開始された。
原城は慶長9年(1604年)ごろ、キリシタン大名・有馬晴信が海に面した丘陵上に築いたもので、松倉氏の時に島原城に拠点が移され廃城となった。ただし石垣などは完全に破却されておらず、一揆勢が籠城した時点では高い防衛機能は残されていたという。
幕藩軍は12月10日から3度の攻撃をするがいずれも失敗。1月4日から兵糧攻めに作戦転換して2カ月が経とうとするころに総攻撃を行い、2月28日に原城は陥落。絵師の山田右衛門作(えもさく)を除く、2万数千人とも3万7,000人ともいわれる一揆勢は皆殺しにされた。平成の発掘調査では、銃弾や十字架などと共に大量の人骨が出土している。
周囲約4キロメートルの原城跡の北側にある大手門跡の前を過ぎて、丘陵を約600メートル歩くと本丸跡。その東端、高さ20メートルほどの崖の上に十字架や天草四郎の墓碑などが置かれ、海の先には一揆勢が談合を行った湯島が浮かぶ。


参考資料:神田千里『島原の乱』中公新書、大橋幸泰『検証島原天草一揆』吉川弘文館、他
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