背を向けたキリシタン像

3体のキリシタン像
3体の像は昭和50年代にはここにあったそうです。

 原城本丸跡に立つ十字架のすぐ後ろは、崖になっています。そこに設けられた柵の先には、小さな3体のキリシタン像が背中をこちらに向けて置かれています。その後ろ姿を見ていると、正面からの姿も見たくなってきますが、柵の中に入るわけにもいきません。そのことにわずかなもどかしさを感じます。
 誰が、いつ、何のために置いたのか、地元の方に尋ねてみましたが、分からないそうです。そこで像の視線の先、海原の向こうにある天草(熊本県)の湯島と大矢野島に行ってみましたが、やはり何も分かりませんでした。
 数年にわたる凶作や、それでも容赦のない権力による収奪や弾圧で、変わらない苦しい生活に強いもどかしさを感じた人びとの、その末の救いを求めての信仰であり、蜂起だったのでしょう。
 原城本丸跡で感じさせられた小さなもどかしさは、島原・天草一揆などで亡くなっていった人たちをしのぶ、よすがのような気がしました。
(平成30年11 月訪問 )

フロイスの日本生活の始まり

横瀬浦
八ノ子島の十字架が横瀬浦に入港するポルトガル船の目印でした。

 ヨーロッパ各地に散逸していた、ルイス・フロイスが残した日本についての記録の写しを基に、昭和52年に日本語訳『日本史』が出版されました。織田信長や豊臣秀吉などの権力者のみならず、一般庶民とも直接関わったフロイス自身の見聞などをまとめた、膨大な記録です。江戸時代の禁教政策により、キリスト教関連の資料はことごとく失われていたこともあり、とても貴重なものです。
 フロイスが1563年7月6日にポルトガル船で宣教師として来日し、初めて上陸した所が西彼杵半島北端の横瀬浦でした。
 当時、この小さな集落に全国からキリスト教徒や商人らが集まり、クリスマスや復活祭の祝いは盛大に行われたそうです。
 フロイスもこの地で改宗を望む人たちに洗礼を授けていましたが、上陸した翌月に焼き討ちに遭い、横瀬浦は一夜にして灰燼に帰しました。後半生のほぼ全てを日本で過ごしたフロイスが、その生活を始めてわずか42日目のことでした。
(令和5年1月訪問)

大村湾の静けさ

彼杵川河口
彼杵川河口の先端は、乗船場跡の石碑からすぐの所です。

 2つの瀬戸でのみ外海とつながった湖のような大村湾は、通常はとても穏やかな海です。わたしが最初に見たのは、夜間に湾沿いの道路をクルマで走っていたときでした。ほとんど波はなく、水面に月を映し出した静かな海でした。
 その翌日の午後2時ごろ、東彼杵町の「日本二十六聖人乗船場跡」に立ち寄りました。彼杵川河口右岸の先端近くに立つと、かすみがかかった山並みが遠くに見え、音を立てれば辺りに響き渡るような静けさが漂っていました。
 26人が時津に向けて船出したのは夕方ごろ、「月が光り始め、岸には漁村の灯火が見え、舟は単調な艪の音を響かせ、静かに水面を分けていった」そうです。おそらくわたしが見たときと同じように、海はとても穏やかだったのでしょう。
 後日、2月上旬の夜11時ごろと朝6時ごろに時津の船着き場を訪れ、時津から西坂まで歩いてみましたが、この「大村湾の静けさ」以外に、26人が感じたであろうことを、かすかにでも感じ取れたと思えたことはありませんでした。
(令和5年1 月訪問 )

風頭山の龍馬像

風頭山山頂
風頭山山頂の展望台から龍馬の像と長崎港が見えます。

 夕方に「長崎港」の取材を終え、風頭山に向かいました。寺町通りの深崇寺横の道に入り坂を上り、「亀山社中の跡」を外から見て、さらに徒歩数分の風頭公園に行きました。そこに人けはありませんでしたが、ライトアップされた長崎港を望む「坂本龍馬之像」がありました。
 勝海舟の出張の共として、元治元年(1864年)2月23日に龍馬は初めて長崎を訪れました。その翌年、慶応元年の亀山社中の立ち上げであり、慶応2年の薩長同盟であり、そして慶応3年の大政奉還でした。
 龍馬の最初の長崎訪問の年、長崎港には軍艦28隻、商船198隻、計226隻の外国船が入港したそうです。龍馬は長崎港に浮かぶ外国船を目の当たりにして、国の存亡の機を実感し、何か強い思いを植え付けられたのかもしれません。
 龍馬が長崎を離れたのは、慶応3年(1867年)9月18日です。最初の訪問からおよそ3年半、その約2か月後に龍馬がいた場所が、京都の近江屋でした。
(令和5年2月)

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