アクセス:相生橋(伊万里市伊万里町)
移動手段:徒歩
モデルコース:相生橋 → 松島橋 → 延命橋

かつて人家も少なかった伊万里の浦は、朝鮮出兵の際、鍋島氏の出兵基地に使用されたことで、港としての整備が進んだ。
大きく発展したきっかけとなったのが、内陸部に十数キロメートル入った山里で、日本初の磁器生産が始められたこと。寛永年間(1624~1644年)のころから、有田をはじめ波佐見や三川内などの肥前地域で作られた磁器が、「伊万里焼」として伊万里津から積み出されていった。
伊万里焼は主にオランダ東インド会社により、出島を経て東南アジアやヨーロッパなどに輸出された。動乱で中国磁器の輸出が困難になると、代わりとして日本磁器に対する需要が高まり、万治2年(1659年)ごろから輸出量も増大。しかし18世紀になるころ、中国の輸出再開や、ヨーロッパの窯の発展などにより伊万里焼の輸出が衰退する一方、伊万里や紀州(和歌山県)、筑前(福岡県)などの商人により国内向けの出荷が本格化した。
肥前磁器は伊万里津から積み出されたため「伊万里焼」と呼ばれたが、明治30年の鉄道開通で直接出荷ができるようになると「有田焼」や「波佐見焼」など、産地名で呼ばれるようになった。
往時、近くに船着き場があった相生橋を中心に、下流側の松島橋や上流側の延命橋周辺の伊万里川沿岸には陶器商家などの白壁土蔵造りの建物が並んでいた。
川沿いの道や橋の上では、伊万里焼の壺やデザインされたタイルなどを見ることができる。


参考資料:伊万里市陶器商家資料館「白壁」、伊万里市観光協会「伊万里のまち探検マップ」、他
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