アクセス:国道385号沿いの駐車場(吉野ヶ里町松隈九瀬谷)

紹介スポット:霊仙寺跡

茶畑
江戸時代に僧坊が営んでいたという茶畑が残る。

 日本における茶の栽培は、延暦24年(805年)に最澄が唐から茶を持ち帰り、比叡山山麓(滋賀県)に植えたのが始まりとされる。
 その後中断されたが、鎌倉時代初期の建久2年(1191年)、仏教の修行で宋に渡っていた栄西が帰国して、脊振山に茶を植えるなどして再び栽培されるようになったという。その際、日本になかった抹茶の作法ももたらされた。
 平安時代から江戸時代にかけての脊振山は、九州で英彦山(福岡県)や六郷満山(大分県)と並ぶ山岳仏教の聖地。その中心だった、和銅2年(709年)開基の霊仙寺の一帯は、江戸時代まで「脊振山」と称され、「脊振千坊」と呼ばれるほど多くの僧坊があったという。戦国時代の終わりころから荒廃するが、江戸時代に佐賀藩の援助もあり復興した。しかし明治維新後、藩がなくなり援助も途絶え、事実上の閉山となった。
 神埼市や吉野ヶ里町と福岡市を結ぶ国道385号の途中にある駐車場の脇に、霊仙寺跡の案内板が立つ。木々の中に続く「森林浴歩道」を歩いて行くと、「石上坊跡」と「乙護法堂」への分岐。
 石上坊は数ある僧坊の1つで、栄西が滞在し、茶を植えたという所。今では標柱が立つのみだ。
 「乙護法堂」方面へ進むと、「筑前街道」を示す標識のそばの斜面に茶畑が広がる。上りの階段の先に嘉永5年(1852年)に建てられたという霊仙寺乙護法堂、その前には「日本最初之茶樹栽培地」の碑が立つ。

乙護法堂
乙護法堂の周辺に約90の僧坊などがあった。
石上坊
唐帰りの栄西が茶を植えたという石上坊の跡。

参考資料:村井康彦『茶の文化史』岩波新書、他

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