脊振山の「クマ」

脊振山中
吉野ヶ里町中心部から霊仙寺へ向かう途中の脊振山中の道です。

 脊振山でツキノワグマが目撃されたニュースを、霊仙寺で思い出しました。
 クマといえば、平成4年に群馬県嬬恋村のキャベツ農家で、住み込みのアルバイトを終えて東京に帰る時のことです。長野県との境にある山を歩いて越えたのですが、その時も山中で、「あの山はクマが出る」と農家の方から言われたことを思い出しました。
 幸いにもクマと遭遇しませんでしたが、やや見通しが利く森の中を歩いている時、突然「ドンッ」と重く大きな音が聞こえました。3メートルほど前方で、シカらしき動物が180度反転して走って逃げて行くところでした。その地面を蹴る音が聞こえて姿が見えなくなるまで、3秒もかかっていなかったように思います。野生動物の力強さと瞬発力とスピードに、人間が太刀打ちできるものではないと本能的に思いました。
 緊張感のある取材となりましたが、その正体はアナグマだったそうです。
(平成29年5月訪問)

お菓子と佐賀

森永太一郎翁像
伊萬里神社に立つ森永製菓の創業者・森永太一郎翁像です。

 森永製菓と江崎グリコといえば、日本を代表するお菓子のメーカーですが、いずれも創業者は佐賀の人です。
 伊万里の陶器卸業者の家に生まれた森永太一郎は24歳の時、焼き物を売るために渡米しますが、挫折してしまいます。そこで目をつけたのが洋菓子でした。太一郎は約12年間の工場勤務などを経て明治32年に帰国後、東京・赤坂に洋菓子製造会社を設立しました。一方、現在の佐賀市に生まれた江崎利一は、父親が始めた薬種業を引き継ぎ、大正8年に牡蠣から抽出したグリコーゲンを、キャラメルに入れて製品化しました。これが「グリコ」の始まりです。
 本編の「小城」で述べましたように、佐賀は江戸時代に長崎の出島から砂糖や南蛮菓子がもたらされたことにより菓子文化が根付きました。しかし、大手お菓子メーカーの創業者を2人も輩出したこととは直接的に関係はないようです。
 佐賀の奥深さを感じさせられたような気がしました。
(平成29年5月訪問)

焼き物の三大ブランド

伊万里川沿いの遊歩道でも焼き物を楽しむことができます。

 「唐津焼」と「伊万里焼」と「有田焼」は、焼き物に詳しくなくてもその名前を知っている人は多いと思います。わたしも唐津焼は陶器、他の2つは磁器であることくらいは知っていましたが、伊万里焼のことで現地を訪れて調べているうちにさらに知ることがありました。
 本文の通り、「伊万里焼」は肥前一帯で焼かれて伊万里津から船積みされたもので、「古伊万里」と「鍋島」があるということです。「古伊万里」は主に庶民やヨーロッパなどへの輸出のためのもので、「鍋島」は藩営の窯でお金に糸目をつけずに焼かれた、皇室や将軍家への献上品に用いられた最高品質のものです。
 3つの焼き物の産地である唐津市と伊万里市と有田町は、佐賀県北西部で連なっています。
 日本列島の西の端っこのエリアで、日本を代表する焼き物の三大ブランドが生み出されたことに、再び佐賀の奥深さを見せつけられたような思いがしました。
(平成29年5月訪問)

和泉式部のふるさと

和泉式部像
和泉式部像の傍らにはふるさとを思う歌の碑があります。

 紫式部や清少納言らとともに「中古三十六歌仙」の1人に数えられる平安時代の歌人・和泉式部は、一説によると佐賀の人でした。
 白石町の福泉寺に子宝祈願に訪れた、嬉野塩田郷の商家の夫婦に引き取られ育てられました。幼いころから歌を詠み、優れた作品はその美しさとともに評判となり、9歳から宮廷に仕え「和泉式部」と称されるようになります。「式部」とは宮廷に仕える女性の役人のことです。
 その後、彼女はこの地に帰って来ることはありませんでしたが、次の歌を残しています。「ふるさとに帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん」。この歌に感動した天皇から褒美として、養父母に五町の田んぼが与えられました。それが「五町田」の地名の由来といわれています。
 嬉野市の「和泉式部公園」は五町田の町を望む公園です。園内には和泉式部像が立てられており、その整った顔立ちに彼女の美しさがしのばれるようです。
(平成29年5月訪問)

恋する山

歌垣公園の歌碑
万葉の時代につづられた恋の歌を刻んだ石碑です。

 日が傾き始めたころに、杵島山の歌垣公園に到着しました。
 人里離れた山の中腹にある夕暮れ時の公園では、2人のおばあちゃんを見掛けただけでした。写真を撮っているとそのうちの1人に、「どこから来たの?」と、男1人で来ていたわたしは声を掛けられました。さらに「おひとり?」と尋ねられたので「そうです」と答えると、「あら、もったいないわね」と小さく笑っていました。
 しばらくして2人は公園をあとにし、わたしは写真撮影のために園内を歩き回り、暗くなってクルマに戻りました。
 エンジンをかけ、人心地ついて、缶コーヒーを飲もうとふたを開けた瞬間、ふと思い出しました。ここは歌垣の山で、昔、出会いを求めて男女が集まった「恋する山」であることを。そしておばあちゃんの「あら、もったいないわね」という言葉が頭によみがえった時、缶コーヒーを持つ手が止まっていることに気がつきました。
(平成29年5月訪問)

佐用姫伝説の地

道の駅厳木に立つ佐用姫像です。高さは10メートル以上あります。

 「日本三大悲恋伝説」というものがあるそうです。「羽衣伝説」と「浦島伝説(または竹取物語)」そして唐津が舞台の「佐用姫伝説」です。
 一説に佐用姫は「厳木(きゅうらぎ)」という山深い所で生まれました。JR唐津線の厳木駅から約2キロメートル、厳木多久道路牧瀬IC近くの「道の駅厳木」に、大きな佐用姫の立像が建てられています。そこから国道203号で北へ20キロメートルほどの虹ノ松原のビュースポットの鏡山山頂にも佐用姫像があります。
 朝廷の命令により朝鮮半島に向かう途中、厳木の地に滞在した大伴狭手彦は、世話を受けた家の美しい娘と恋に落ち、結婚をしました。その娘が佐用姫でした。別れの日、佐用姫は鏡山山頂から狭手彦が出航するのを遠くに望み見て、「領巾(ひれ)」を振り続け、悲しみのあまりそのまま名護屋まで追いかけて、加部島で石と化してしまったという話です。
 佐用姫に感情移入すれば悲しい話です。
(平成29年5月訪問)

玄海原発にて

玄海原発
列島西端にある名護屋城跡のさらに西側に原発が見えます。

 名護屋城の取材を終えて浜野浦に向かう途中、玄海原子力発電所の見学施設に立ち寄りました。館内に入るとすぐに係の女性に案内を申し出てこられました。
 平成12年にも、静岡県掛川市の浜岡原発を訪れたことがあります。その際、係員の方の対応が来館者に対して気を使っているような印象がありましたが、玄海でも同じように感じました。
 原発の存続については、平成23年に福島原発での事故が起こる以前からも厳しい声がありましたが、その影響もあるのかと漠然と思いました。
 廃棄物の問題だけでも原発はいずれはなくなるべき「過渡的手段」だと思います。一方で、日本の原子力産業に従事している人は8万人以上といわれます。その中には、日本のエネルギー事情を考えて原子力を「志した人」もいると思います。そういう人たちの生かし方を考えることも、代替エネルギーの確保とともに、原発をなくすために必要なことではないかと、玄海原発で思いました。
(平成29年5月訪問)

不老不死の薬

金立山への道
佐賀市中心部から北へ、背振山地の金立山へ向かう道です。

 取材中に「徐福」の足跡を2度見掛けました。1度目は「葉隠発祥の地」へ向かう際、長崎自動車道近くの金立神社下宮に徐福が祭られていました。2度目は三重津海軍所跡へ向かう途中で「筑後川昇開橋」の袂で徐福像を見掛けました。
 紀元前220年、秦の始皇帝に命じられて「不老不死の薬」を探すため、徐福は「東方」へ向かったそうです。諸説あるようですが、現在の佐賀市諸富町の昇開橋が架かる辺りが徐福の上陸地とされており、佐賀市が出航地の中国・慈溪市に、徐福が愛したという「お辰さん」の陶板を贈り、慈溪市から高さ4.7メートルの徐福像が贈られました。
 金立神社の説明板によると、徐福は「葉隠発祥の地」の背後の金立山山中で不老不死の薬を探しあぐねていたところ、天女が現れて薬を授けられたそうです。
 上陸地から金立山まではほとんど平坦です。道の先に見える山の中に不老不死の薬があると思いながら、徐福は歩いていたのでしょうか。
(平成27年8月訪問)

古代人の存在感

華やかさを感じさせられる色鮮やかな古代人の衣服です。

 本編の「吉野ヶ里」で触れた「展示室」で見た実物の甕棺は、大人の遺体を葬るため、それなりに大きなものです。驚いたのが、複数の甕棺はいずれも均整のとれた形で、口の所もきれいに平らに整えられていたことです。まるで規格化された大量生産品のようでした。
 他にも、鮮やかな色で染められた衣服や形の整った装飾品などが展示されていました。係の方は「生活に関するもののレベルは今と大きな差はないのでは」ということを言われていました。展示品を見た後だけにその通りだと思いました。
 園内を歩いていると、「火おこし体験」のコーナーがありました。古代の人たちは、火をおこす技術は普通に持っていたように思いますが、現代人の多くは文明の利器がなければ火を得ることは難しいでしょう。
 社会は進歩しても個人の能力は退化している部分もあるのではと思いつつ、古代の人たちの存在感が以前よりグッと近づいたように感じました。
(平成27年8月訪問)

嬉野の湯

嬉野温泉には日帰り入浴可能な温泉施設もあります。

 佐賀県南部の取材は、少々ハードでした。夜の10時ごろに武雄でレンタカーを借りて、県南端の太良町まで行き、仮眠をとって夜明けとともに動き出しました。竹崎城址などを訪ねた後、祐徳稲荷神社、嬉野温泉、杵島山などを巡り、移動しっぱなしの状態でした。
 嬉野温泉では、到着してすぐに公衆浴場の「シーボルトの湯」で温泉に浸った後、町中で足湯を見つけました。適度な疲れと、お風呂に入って間もなかったせいか、湯に足を浸すとやがて異常なくらいに気持ちよくなってきました。
 この時、熊本の日奈久温泉を訪れた種田山頭火の言葉を思い出しました。「温泉はよい、ほんたうによい。出来ることなら滞在したい……」。わたしも「このままいたい」と思いました。
 家族連れが来たのをきっかけに足湯を離れることができましたが、予定がなかったら滞在していたかもしれません。それくらい気持ちのいい嬉野の湯でした。
(平成29年5月訪問)

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